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意味のない論争になりますが、私は私的言語が存在しないからこそ独我論が成立し得ると考えています。Epistemological solipsismは独我論の一種の分岐であり、他者の世界を否定しない立場でもある。他人の世界が「認識しようがない」、「語りえない物」だからこそ「肯定も否定もできない」だと思います。「自分の世界」しか確信できない、「他者の世界」や「人々が築き上げた規則」は絶対に正しく認識することすらできないからこそ、実践によって自分が認識してるルールを外の世界に合致させるように頑張る必要があります。この部分は「私的言語が存在しない」、「クワス算」にも当てはめれるじゃないかと思っています。だから自分は後期ヴィトゲンシュタインもクリプキも一種の独我論として勝手に解釈して納得しています、だがそもそも世界の在り方なんて全部沈黙せざるを得ない物の一つにすぎから、これもまた無意味な解釈になるでしょう。日本語はまだ上手に話せないので、言いたいことが上手く伝えられないかもしれませんが、長文失礼しました。
すごい世界ですね。人間にとって言語と規則は大事にしているものですが、それが不完全であると分かったら、自分のIDが破壊されました。哲学チャンネルさんの動画は、流れが綺麗で順ををって理解できるので有難いです。
自己中だったからわかるのですが、自己中の一番辛い所は周りが何をやっているか理解できないので自分が自己中なのにさえも気付けないという所なんですよね。そういえばゲームの中の名前とかテクニックなどの専門用語だらけの話をしている界隈に入る為には自分もそのゲームをやらないとわかんないんですよね。対人関係で自分にはわからない話しか周りがしなくなった経験があるのでこれがボイコットかなぁと思いましたね。
クワス星人の、すごく解りやすかったです。何事も相対的に捉えなければいけないという事ですね。自分の知っているルールが絶対ではない、知らないルールがあるかも知れないと思うことから始まります。それが科学、この世の発展の始まりですもんね。こちらのチャンネルを見だしてから、科学も心理学も哲学も全てがつながっているな、と素直に理解できました。哲学だけでなく物事の捉え方そのものの勉強になってます。感謝。
なんだか精神について、にも置き換えて言えそうな話ですね。クワス算の解釈とどう折り合いをつけていくのかがダイバーシティみたいな。ただこれまでの解釈。「赤」という色がもたらすイメージ(これまでのルール)に加えて、「緑」という色の側面もあるかもしれないと提示することがこれからの社会では大事な考え方になるかもしれないという…分かりやすく漢字(これまでのルール)で表そうとしてみると、時代に合ってないと言われる言葉も意外と多くありますし。もしかしたら「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と言ったのは、歴史が積み重ねてきた土台までも奪いかねないことを思っての文言なのでしょうかね。
動画いつもおつかれさまです。数学で必要となる最も基本的な規則に「前と同じことをやる(★)」(〜再帰的な適用)があります。例えば歩くためには、一歩踏み出したのち、(★)をすればよいです。無限に続く行為を有限の立場で定めるには(★)が必要だし、逆に(★)ができるなら「数える」くらいは無限に共通に行える気もします。クワス星人が(★)をどう"間違って"解釈するのか気になります。関連することとして、(★)の解釈において「ルイス・キャロルのパラドックス」は起きるような気はします。D.Hofstadterの「ゲーデル・エッシャー・バッハ(GEB)」では、なぜ人間は規則のパラドクスに陥らないのかの考察があります。いつかGEBも動画にしてもらえたら嬉しいなぁ、などと思っています(私は一部しか読んでないです...)。
言語は人に伝えるためでもあるますけど自分で事実を把握するためにもありますなので人にどう伝わったかよりも自分がどう理解したかも大事ですしかし他者からすればどうしたかったのかとかどんな発信をしたのかそれが大事です自分の内的感覚も大事ですけど他者からの評価も大事なのでどちらも疎かにできないと思うとジレンマですバランスが大事なのでやはり中庸が肝要でしょうかそんなことを考えましたとすると妥協は必要なんですかね必要でもないですかね他者と関わる方がダメなこともありますからよく分かりません
今回の話題と記号接地問題symbol grounding problemとの関係は、どうなりますかね?”同じ”言語共同体に属している人たちとは「話が通じる」と感じることが多いですが、それでも「どうも話が通じないな」と思う場面はゼロではなく、そのような時は、それぞれが使っている単語が何にどのように接地groundingしているのかがズレていることが多いように思います。そんな時は、相手と一緒に過ごす、一緒に何かをやる、そういった実践や行為を通じてのみ、お互いが使っている記号がどのように接地しているか、が何となく了解されてくる。そういう意味では、言語はコミュニケーション手段としては不完全だけれども、他によりマシな手段がないので仕方ないな、と思います。
深層学習やブロックチェーンの時代にウィトゲンシュタインやクリプキがどういう評価をされるのか気になります批判されがちな想像の共同体を莫大なサンプルやエネルギーで実現出来るかもしれないんですよね
プログラミング言語など、数学の言語で言い表せることについては人間も明晰に論じることができるはずなので、人工AIが日々計算すればするほど人間の認知領域が広がってるとも言えますね。ただ、これは将棋の渡辺九段が言っていたのですが、将棋の人工AIの出した結論については認知できても、なぜAIがその答えに至ったかという計算手順がわからないという問題があるそうです。(将棋AIはこの手を指すと98%の確率で勝ちますよ。と教えてはくれるけど、その根拠と残りの2%が何なのかは教えてくれない)半導体の中で動く量子の動きは謎が多く全てを人間がわかるように言語化できない。AIと人間の脳が違い過ぎて、もし仮にそれが絶対に正しい答えだとしても人間は完全に理解することができず、結果、マネすることができないそうです。もしかしたら将棋の人工AIはクワス星人かもしれませんね。
言語あるいは数字(数学)という形式(フレーム=形式)を探求(超克?)しようとすると、パラドックスが生まれてしまう。形式主義(有限性)の先にはソレの崩壊が”大きな壁“となって立ちはだかっているようです。😂クリプキの社会的な立場上、「排中律」を否定することは出来なかった…現実社会において、「直観主義理論byブラウワー」を否定してコンピュータサイエンスを語ることは不可能です。形式主義(計算)の絶対性(排中律)を前提に設計されているのにも関わらず、使用に値するには、ソノ無限ループ(フリーズ)を解消するためには、直観主義理論を取り入れなければならないからです。現代社会の閉塞状態を打ち破るには、形式主義パラダイムを超える必要があるのかも知れません。あぁ、また「あーだこーだ」書いてしまった…😂😂😂いつも、素晴らしい動画ありがとうございます。🙇
脳の中では言葉や記号を使わないでも生きているはず 外人は日本語で思考しないし動物には言葉すらない 言葉は他人と共有するために必要で仕方なく利用する不完全な思念伝達の方法だと思ってました。?もしデータを完全共有できるテレパシーでもあるなら 冗談で言うと歯医者さんは痛みで悶絶します。自分の感じるすべての疑問と考察には哲学での考察が出ててなぞるような感覚で理解が反復することもあります。
クワス星人が言ってるのは「数の理」ではなく、ことば上の「決め事」だと思うが違うんだろうか。数学ってのはある種宇宙共通語だと思ってたけど違うってことか。そう言えば「バカの壁」という本があった。
赤と感じてしまうものを記号として「赤」と書き「あか」と発音してるに過ぎない赤を他人に説明する時に例え話を封じると赤を説明できないが説明する人は言語として説明できないだけであって赤の感覚を持っている人は赤の本質的な感覚を感じていてそれをこの世界に表現する記号として「赤」と言う文字や「あか」という音として構築しているのだと思っています。突き詰めれば芸術が当てはまるのかと言語というのはあまりにもデジタルで表現に乏しく、この感覚や衝動を言語化できないために、より細かい表現が構築可能な表現方法で言葉と同じようにこの衝動や感覚を構築してるのだと思います。もっと言えば思考自体、言語で思考なんてしてなく、その時の感覚、衝動を脳内で言語として構築化しているのかなと
私的言語は、「今この瞬間の私」と「今この瞬間の私」が対話することについては不可能だと思う。「2023/9/21/8:23の私」と「2023/9/21/8:24の私」との間については、一方が他方を他者として扱えるので、可能だと思う。
体温計が、42℃以上になったら、必ずエラーが出る的なイメージで良いんでしょうかねどうなんだろう、、
後期ウィトゲンシュタイの理解が深まりました。ところで、本論とは少しズレますが、⚫︎⚫︎星人という比喩は面白いですね。三体という小説では、異星人との接触によって大きく変化する地球人社会が描かれていますが、まさきに、人類という家族的類似性の外側との接触によって、内部のゲームルールが変化していく(規則の絶対性が破壊される)ということなのでしょうか?笑
これを実際他人に言ったら嫌われそうで怖いです
ニーチェの悲劇の誕生の解説して欲しいです!(_ _)
全然違うかもしれませんが野球のルール知らなくても野球できるようなもんですかね。
どちらかというと、なんとなく球を追っかけていたら野球のルールができて、私たちはそのルールをあたかもそれが元からあったかのように感じている状態ですかね!当然、打ったら三塁側に走る野球'があっても良いはずなのに。
上手く表現出来ませんが、人間が現実だと思い込んでいる現実の正体は、仮想現実の一部分を人間の都合で現実と思い込んでいるだけかと思う
哲学一筋。
自分が好きな音楽を聞きながらRUclipsを視聴しているのでRUclipsの音楽を消すボタンが欲しいのですが、RUclipsだけに専念すべきですか?
「言語ゲーム」ありましたね。言語は科学的言語と日常的言語に大別出来、科学的言語は事実と一対一で紐付いているが、日常言語は時と場合によって意味が変化する。その、日常言語が時と場合によって変化する様相を「言語ゲーム」とウィトゲンシュタインは定義しただったでしょうか。(笑)実際に生活しながら「言語ゲーム」に参加しないと、日常言語の意味は分からないが、日常言語を使っている「私」は規則の中にあるので、分析は出来ない…。つまり、沈黙せざるを得ない…。何というジレンマ。(笑)哲学の問題は全て解決したって本当なのか、ウィトゲンシュタイン?って感じますね。お話し面白かったです。長文すみません。
「クワス算」が「規則のパラドックス」のわかりやすい説明になっているかというとちょっと疑問です。47以上の数字の和は5になるという程度のルールなら地球人でも十分理解可能で、特段の違和感は感じません。クリプキは特別に何を説明したかったんでしょうか。相手によっては規則が遵守されない場合があることぐらいは当たり前といえば当たり前ですよね。「規則のパラドックス」が重要そうなのはわかりますが、論理的に厳密たらんとしてわかりにくくしているようにも見えます。要するに規則(文法)があるから言語行為があるのでなく、言語行為があるから文法ができたというかなりありふれた話でしょう。(ひょっとして自然言語じゃなくエスペラントとか人工言語レベルの話をしてるんだろうか。)それがなぜ重要なのかをもっとつっこんで説明した方がいいように思いますね。言語規則はスタティック(静的)なので論理で捉えられるが、言語行為はダイナミック(動的)なので論理では捉えられない。そこをどううまく扱うかがウィトゲンシュタインの問題意識であり重要ポイントかと思います。それは、哲学的には古くからある問題で、ギリシャ時代ならヘラクレイトスとパルメニデスの関係とか、ゼノンの「飛ぶ矢は飛ばず」問題などにも通ずるでしょうし、近代なら、ヘーゲルの論理学に対する弁証法の問題として理解できます。言語活動という不定形で変動し流転していくものをどう捉えるか、またそれを言語自身によって行うにはどうすればよいか、というのが問題なんでしょう。「私的言語の不可能性」についてはどうでしょう。クリプキによればそれは「規則のパラドックス」から説明されるということですが、私ならヘーゲルでも援用して、言語活動は「私」と「他者」の弁証法によって成立するので、私だけとも公だけでもない両者を止揚したものとなる、程度でお茶を濁して終わり、というかんじですかね。「規則のパラドクス」が重要に思えるのは、特に昨今のAIの進歩との絡みですね。概念化抽象化については深層学習によってかなり進展しましたが、いまはまさに言語についてのブレークスルーがあるのかないのかという段階に入っていると思います。おそらくAIも言語的な思考はするでしょう。いくらAIの処理能力だ高いといっても全ての情報をそのまま処理するわけはいきませんから、概念化して言語化して処理するというプロセスは必要になるでしょう。その場合の言語規則は静的なものなのか動的なものなのか、どうやって言語規則を生成させるのかとか。あるいはAIが使用する言語は人間に理解可能なものなのかとか。その意味では、AIにとっては私的言語は可能なんじゃないかという気もしますね。教師ありで学習すれば人間に理解可能な社会的言語になりますが、AIとしては教師なしでも自分だけが理解する最適な言語に到達可能なんじゃないでしょうか。
今ごろになって、クリプキが言いたかったのは論理の相対性とか不可能性ということだったんじゃないかという考えが、なぜかふと湧いてきた。言語はおろか論理の規則も絶対不変の真実ではない。論者が属する共同体によって変わりうるものだと。とするとクワス星人の話は比喩ではなくて実際の話だったわけだ。人と人が、どんなに論理的に語り合ったとしても、原理的には分かり合えないのだとすれば、哲学界にとってはかなり衝撃的な話だろう。実社会ではよくあることにせよ。論理主義や分析哲学においてクリプキの影響力が大きいというのもそういうことなのか。「名指しと必然性」というのも、名指しは必然であるが、それ以外は必然でなく相対的なものだという話だとすれば、たしかにそのインパクトは大きそうだ。論理は常に正しいとは限らないので、正しさを保証できる範囲や条件を明確にする必要がある。それを研究するのが分析哲学の仕事であるというなら、英米哲学で分析哲学が流行るのもなんとなくわかる気はする。ヴィトゲンシュタインが言おうとしたこととは少しずれるような気もするが。
@@空蝉-i4q クリプキとヴィトゲンシュタインとは、考えがだいぶ違う。クリプキはただの懐疑主義者。
意味のない論争になりますが、私は私的言語が存在しないからこそ独我論が成立し得ると考えています。
Epistemological solipsismは独我論の一種の分岐であり、他者の世界を否定しない立場でもある。
他人の世界が「認識しようがない」、「語りえない物」だからこそ「肯定も否定もできない」だと思います。
「自分の世界」しか確信できない、「他者の世界」や「人々が築き上げた規則」は絶対に正しく認識することすらできないからこそ、実践によって自分が認識してるルールを外の世界に合致させるように頑張る必要があります。この部分は「私的言語が存在しない」、「クワス算」にも当てはめれるじゃないかと思っています。
だから自分は後期ヴィトゲンシュタインもクリプキも一種の独我論として勝手に解釈して納得しています、だがそもそも世界の在り方なんて全部沈黙せざるを得ない物の一つにすぎから、これもまた無意味な解釈になるでしょう。
日本語はまだ上手に話せないので、言いたいことが上手く伝えられないかもしれませんが、長文失礼しました。
すごい世界ですね。人間にとって言語と規則は大事にしているものですが、それが不完全であると分かったら、自分のIDが破壊されました。
哲学チャンネルさんの動画は、流れが綺麗で順ををって理解できるので有難いです。
自己中だったからわかるのですが、自己中の一番辛い所は周りが何をやっているか理解できないので自分が自己中なのにさえも気付けないという所なんですよね。
そういえばゲームの中の名前とかテクニックなどの専門用語だらけの話をしている界隈に入る為には自分もそのゲームをやらないとわかんないんですよね。対人関係で自分にはわからない話しか周りがしなくなった経験があるのでこれがボイコットかなぁと思いましたね。
クワス星人の、すごく解りやすかったです。何事も相対的に捉えなければいけないという事ですね。自分の知っているルールが絶対ではない、知らないルールがあるかも知れないと思うことから始まります。それが科学、この世の発展の始まりですもんね。こちらのチャンネルを見だしてから、科学も心理学も哲学も全てがつながっているな、と素直に理解できました。哲学だけでなく物事の捉え方そのものの勉強になってます。感謝。
なんだか精神について、にも置き換えて言えそうな話ですね。
クワス算の解釈とどう折り合いをつけていくのかがダイバーシティみたいな。
ただこれまでの解釈。「赤」という色がもたらすイメージ(これまでのルール)に加えて、「緑」という色の側面もあるかもしれないと提示することがこれからの社会では大事な考え方になるかもしれないという…
分かりやすく漢字(これまでのルール)で表そうとしてみると、時代に合ってないと言われる言葉も意外と多くありますし。
もしかしたら「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と言ったのは、歴史が積み重ねてきた土台までも奪いかねないことを思っての文言なのでしょうかね。
動画いつもおつかれさまです。
数学で必要となる最も基本的な規則に「前と同じことをやる(★)」(〜再帰的な適用)があります。
例えば歩くためには、一歩踏み出したのち、(★)をすればよいです。
無限に続く行為を有限の立場で定めるには(★)が必要だし、逆に(★)ができるなら「数える」くらいは無限に共通に行える気もします。
クワス星人が(★)をどう"間違って"解釈するのか気になります。
関連することとして、(★)の解釈において「ルイス・キャロルのパラドックス」は起きるような気はします。
D.Hofstadterの「ゲーデル・エッシャー・バッハ(GEB)」では、なぜ人間は規則のパラドクスに陥らないのかの考察があります。
いつかGEBも動画にしてもらえたら嬉しいなぁ、などと思っています(私は一部しか読んでないです...)。
言語は人に伝えるためでもあるますけど
自分で事実を把握するためにもあります
なので人にどう伝わったかよりも
自分がどう理解したかも大事です
しかし他者からすればどうしたかったのかとかどんな発信をしたのか
それが大事です
自分の内的感覚も大事ですけど
他者からの評価も大事なので
どちらも疎かにできないと思うとジレンマです
バランスが大事なのでやはり中庸が肝要でしょうか
そんなことを考えました
とすると妥協は必要なんですかね
必要でもないですかね
他者と関わる方がダメなこともありますからよく分かりません
今回の話題と記号接地問題symbol grounding problemとの関係は、どうなりますかね?
”同じ”言語共同体に属している人たちとは「話が通じる」と感じることが多いですが、それでも「どうも話が通じないな」と思う場面はゼロではなく、そのような時は、それぞれが使っている単語が何にどのように接地groundingしているのかがズレていることが多いように思います。
そんな時は、相手と一緒に過ごす、一緒に何かをやる、そういった実践や行為を通じてのみ、お互いが使っている記号がどのように接地しているか、が何となく了解されてくる。そういう意味では、言語はコミュニケーション手段としては不完全だけれども、他によりマシな手段がないので仕方ないな、と思います。
深層学習やブロックチェーンの時代にウィトゲンシュタインやクリプキがどういう評価をされるのか気になります
批判されがちな想像の共同体を莫大なサンプルやエネルギーで実現出来るかもしれないんですよね
プログラミング言語など、数学の言語で言い表せることについては人間も明晰に論じることができるはずなので、人工AIが日々計算すればするほど人間の認知領域が広がってるとも言えますね。ただ、これは将棋の渡辺九段が言っていたのですが、将棋の人工AIの出した結論については認知できても、なぜAIがその答えに至ったかという計算手順がわからないという問題があるそうです。(将棋AIはこの手を指すと98%の確率で勝ちますよ。と教えてはくれるけど、その根拠と残りの2%が何なのかは教えてくれない)半導体の中で動く量子の動きは謎が多く全てを人間がわかるように言語化できない。AIと人間の脳が違い過ぎて、もし仮にそれが絶対に正しい答えだとしても人間は完全に理解することができず、結果、マネすることができないそうです。もしかしたら将棋の人工AIはクワス星人かもしれませんね。
言語あるいは数字(数学)という形式(フレーム=形式)を探求(超克?)しようとすると、パラドックスが生まれてしまう。形式主義(有限性)の先にはソレの崩壊が”大きな壁“となって立ちはだかっているようです。😂
クリプキの社会的な立場上、「排中律」を否定することは出来なかった…
現実社会において、「直観主義理論byブラウワー」を否定してコンピュータサイエンスを語ることは不可能です。
形式主義(計算)の絶対性(排中律)を前提に設計されているのにも関わらず、使用に値するには、ソノ無限ループ(フリーズ)を解消するためには、直観主義理論を取り入れなければならないからです。
現代社会の閉塞状態を打ち破るには、形式主義パラダイムを超える必要があるのかも知れません。
あぁ、また「あーだこーだ」書いてしまった…😂😂😂
いつも、素晴らしい動画ありがとうございます。🙇
脳の中では言葉や記号を使わないでも生きているはず 外人は日本語で思考しないし動物には言葉すらない 言葉は他人と共有するために必要で仕方なく利用する不完全な思念伝達の方法だと思ってました。?もしデータを完全共有できるテレパシーでもあるなら 冗談で言うと歯医者さんは痛みで悶絶します。自分の感じるすべての疑問と考察には哲学での考察が出ててなぞるような感覚で理解が反復することもあります。
クワス星人が言ってるのは「数の理」ではなく、ことば上の「決め事」だと思うが違うんだろうか。数学ってのはある種宇宙共通語だと思ってたけど違うってことか。
そう言えば「バカの壁」という本があった。
赤と感じてしまうものを記号として「赤」と書き「あか」と発音してるに過ぎない
赤を他人に説明する時に例え話を封じると赤を説明できないが
説明する人は言語として説明できないだけであって赤の感覚を持っている
人は赤の本質的な感覚を感じていてそれをこの世界に表現する記号として「赤」と言う文字や「あか」という音として構築しているのだと思っています。
突き詰めれば芸術が当てはまるのかと
言語というのはあまりにもデジタルで表現に乏しく、この感覚や衝動を言語化できないために、より細かい表現が構築可能な表現方法で言葉と同じようにこの衝動や感覚を構築してるのだと思います。
もっと言えば思考自体、言語で思考なんてしてなく、その時の感覚、衝動を脳内で言語として構築化しているのかなと
私的言語は、「今この瞬間の私」と「今この瞬間の私」が対話することについては不可能だと思う。
「2023/9/21/8:23の私」と「2023/9/21/8:24の私」との間については、一方が他方を他者として扱えるので、可能だと思う。
体温計が、42℃以上になったら、必ずエラーが出る的なイメージで良いんでしょうかね
どうなんだろう、、
後期ウィトゲンシュタイの理解が深まりました。
ところで、本論とは少しズレますが、⚫︎⚫︎星人という比喩は面白いですね。三体という小説では、異星人との接触によって大きく変化する地球人社会が描かれていますが、まさきに、人類という家族的類似性の外側との接触によって、内部のゲームルールが変化していく(規則の絶対性が破壊される)ということなのでしょうか?笑
これを実際他人に言ったら嫌われそうで怖いです
ニーチェの悲劇の誕生の解説して欲しいです!(_ _)
全然違うかもしれませんが野球のルール知らなくても野球できるようなもんですかね。
どちらかというと、なんとなく球を追っかけていたら野球のルールができて、私たちはそのルールをあたかもそれが元からあったかのように感じている状態ですかね!
当然、打ったら三塁側に走る野球'があっても良いはずなのに。
上手く表現出来ませんが、人間が現実だと思い込んでいる現実の正体は、仮想現実の一部分を人間の都合で現実と思い込んでいるだけかと思う
哲学一筋。
自分が好きな音楽を聞きながらRUclipsを視聴しているのでRUclipsの音楽を消すボタンが欲しいのですが、RUclipsだけに専念すべきですか?
「言語ゲーム」ありましたね。言語は科学的言語と日常的言語に大別出来、科学的言語は事実と一対一で紐付いているが、日常言語は時と場合によって意味が変化する。その、日常言語が時と場合によって変化する様相を「言語ゲーム」とウィトゲンシュタインは定義しただったでしょうか。(笑)実際に生活しながら「言語ゲーム」に参加しないと、日常言語の意味は分からないが、日常言語を使っている「私」は規則の中にあるので、分析は出来ない…。つまり、沈黙せざるを得ない…。何というジレンマ。(笑)哲学の問題は全て解決したって本当なのか、ウィトゲンシュタイン?って感じますね。お話し面白かったです。長文すみません。
「クワス算」が「規則のパラドックス」のわかりやすい説明になっているかというとちょっと疑問です。47以上の数字の和は5になるという程度のルールなら地球人でも十分理解可能で、特段の違和感は感じません。クリプキは特別に何を説明したかったんでしょうか。相手によっては規則が遵守されない場合があることぐらいは当たり前といえば当たり前ですよね。
「規則のパラドックス」が重要そうなのはわかりますが、論理的に厳密たらんとしてわかりにくくしているようにも見えます。要するに規則(文法)があるから言語行為があるのでなく、言語行為があるから文法ができたというかなりありふれた話でしょう。(ひょっとして自然言語じゃなくエスペラントとか人工言語レベルの話をしてるんだろうか。)それがなぜ重要なのかをもっとつっこんで説明した方がいいように思いますね。
言語規則はスタティック(静的)なので論理で捉えられるが、言語行為はダイナミック(動的)なので論理では捉えられない。そこをどううまく扱うかがウィトゲンシュタインの問題意識であり重要ポイントかと思います。
それは、哲学的には古くからある問題で、ギリシャ時代ならヘラクレイトスとパルメニデスの関係とか、ゼノンの「飛ぶ矢は飛ばず」問題などにも通ずるでしょうし、近代なら、ヘーゲルの論理学に対する弁証法の問題として理解できます。
言語活動という不定形で変動し流転していくものをどう捉えるか、またそれを言語自身によって行うにはどうすればよいか、というのが問題なんでしょう。
「私的言語の不可能性」についてはどうでしょう。
クリプキによればそれは「規則のパラドックス」から説明されるということですが、私ならヘーゲルでも援用して、言語活動は「私」と「他者」の弁証法によって成立するので、私だけとも公だけでもない両者を止揚したものとなる、程度でお茶を濁して終わり、というかんじですかね。
「規則のパラドクス」が重要に思えるのは、特に昨今のAIの進歩との絡みですね。
概念化抽象化については深層学習によってかなり進展しましたが、いまはまさに言語についてのブレークスルーがあるのかないのかという段階に入っていると思います。おそらくAIも言語的な思考はするでしょう。いくらAIの処理能力だ高いといっても全ての情報をそのまま処理するわけはいきませんから、概念化して言語化して処理するというプロセスは必要になるでしょう。その場合の言語規則は静的なものなのか動的なものなのか、どうやって言語規則を生成させるのかとか。あるいはAIが使用する言語は人間に理解可能なものなのかとか。
その意味では、AIにとっては私的言語は可能なんじゃないかという気もしますね。教師ありで学習すれば人間に理解可能な社会的言語になりますが、AIとしては教師なしでも自分だけが理解する最適な言語に到達可能なんじゃないでしょうか。
今ごろになって、クリプキが言いたかったのは論理の相対性とか不可能性ということだったんじゃないかという考えが、なぜかふと湧いてきた。
言語はおろか論理の規則も絶対不変の真実ではない。論者が属する共同体によって変わりうるものだと。とするとクワス星人の話は比喩ではなくて実際の話だったわけだ。
人と人が、どんなに論理的に語り合ったとしても、原理的には分かり合えないのだとすれば、哲学界にとってはかなり衝撃的な話だろう。実社会ではよくあることにせよ。
論理主義や分析哲学においてクリプキの影響力が大きいというのもそういうことなのか。
「名指しと必然性」というのも、名指しは必然であるが、それ以外は必然でなく相対的なものだという話だとすれば、たしかにそのインパクトは大きそうだ。
論理は常に正しいとは限らないので、正しさを保証できる範囲や条件を明確にする必要がある。それを研究するのが分析哲学の仕事であるというなら、英米哲学で分析哲学が流行るのもなんとなくわかる気はする。
ヴィトゲンシュタインが言おうとしたこととは少しずれるような気もするが。
@@空蝉-i4q クリプキとヴィトゲンシュタインとは、考えがだいぶ違う。クリプキはただの懐疑主義者。